[PR] オーガニック 講師としての自分 | 日常のありふれたチャイムたち

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さて、春期講習

金曜日で年度の授業もすべて終わり、土曜日から春期講習を迎える。

いや講習と呼べるほどのものでもないかもしれないが・・・。

何をやるにせよ目的を持って事に臨まなければならない。

春期にせよ夏期にせよ、もちろん普段の通常授業においても、だ。

 

どこの塾も新年度の生徒獲得に躍起になり、周囲が慌ただしさを増す。

講習料無料や入塾金無料と謳った広告が飛び交い、学校の校門前も連日大盛況のようだ。

多数の塾は新年度の「新規生徒獲得」という確固たる目的があって大きな動きを見せる。

この塾のように小さな定員制の塾とは自ずと方向性は変わってくる。

 

新中1を最も重要視するのは当然だが、私の場合「慣れること」に最も重きを置く。

ハッキリ言うとスタートダッシュなんか考えてもいない。

「授業に慣れること」が最も大事なのだ。

この塾では小学生と中学生ではやり方が異なり、個別形式から一斉形式へと変化する。

そこで重要なのが「聞く姿勢」である。

実は「授業を聞ける」生徒は少ない。

15分もすれば手遊びが始まったりするのが現実で、特に男の子に多い。

もちろん授業では生徒たちの集中の度合いによってわざと脱線させたりもするが、それだけではどうにも足りない。

聞くときは聞く、書くときは書く、解くときは解く、といったメリハリがまだまだないのだ。

それを少しずつ訓練していく場である。

 

次に「ノートの取り方」も決しておざなりにはできない。

そもそもノートとは『後から見直すため』にとるものであって、その場しのぎであってはならない。

当然見やすいものでなければならないし、単教科で1冊という形にしておかなければならない。

よく見かけるのが、数学のノートの後ろに社会など別教科のノートが書いてある。

この状況は100%『後から見直す』ことはない。

だから私はルーズリーフを勧めている。

常に教科ごとに分けて、『後で見直す』ことができるような状況はこちら側である程度指導しなければならないだろう。

もちろん授業中のノートの取り方も指導していき、知識をことよりも先に知識を得るための手段を重要視している。

 

他にも多々あるが、まずはこの2点がしっかりとできれば、スタートダッシュに失敗したとしても1ヶ月もあれば充分追いつける。

重要なのは中学生になるためのモノであって、小学7年生になってしまうようなスタートダッシュではない。

 

| 講師としての自分 | 00:50 | comments(0) | - |
入試まで1ヶ月弱、これだけは・・・

全ての中学の修学旅行も終わり、徐々に日常が戻ってきた。

 

入試の方も最後の仕上げに入り、作文の書き方も段々様になってきている。

自由英作の方は単語ミスさえなければ全員満点が取れるだろう。

自由英作にはコツがあるが、これだけは点数に直結してしまうのでさすがにブログには書けない。

もちろんうちの塾生たちには全て伝授してある。

 

作文にしろ自由英作にしろ、自己満足でやってはいけない。

自分では良い文が書けているつもりでも、採点者の目から見ると「は?」と首をかしげてしまうことが少なくない。

言いたいことを次々に書いているだけなので、段落構成はメチャクチャだし、主語や述語、修飾語、などの関係も支離滅裂になっている。

さらに作文を見ていて一番多いのは「段落のつながりがない」こと。

最初の段落では『Aが大事だ』と書いてあるのに、最後では『Bが最も大事だ』になっている。

全くつながりがない状態である。

これは完全に自己満足。

英作の場合では主語が全て「I」。

これはかなり多い。

文法的に間違ってはいないだろうが、満点を取れるレベルではない。

よく使われるのが「it for to構文」や「there + be」、あとは第5文型の「~ makes me happy」あたりか。

簡単な単語を使うのは自由の英作の鉄則だが、ある程度長めの英文を交えないと、語数指定に届かない場合もある。

そうなるとまた自己満足の英文が羅列されることになる。

語数を稼ぐのに、お奨めは「関係代名詞」なのだが、使いこなせる生徒は決して多くない。

それを踏まえた上で、うちの塾生たちは全員関係代名詞を使って満点まで持って行けるようにしている。

 

自由英作や作文はとにかく得点配分が大きい。

決しておざなりには出来ないし、ここから徹底的な添削をする能力が講師にも求められる。

この2つだけは、「自学しなさい」とは決して言ってはいけないのだ。

| 講師としての自分 | 00:38 | comments(0) | - |
自立学習について

冬期講習も終わり、ようやく落ち着いた。

しかし、これから入試本番を迎えるため、休みらしい休みは全てなくなる。

体力と気力の勝負の時が始まる。

 

 

勉強法というものについては、塾を始めたときから試行錯誤を繰り返している。

ふと気付くのは、中学生の場合、小学生の時のやり方をそのまま続けていることである。

例えば、「問題を解くときは何も見ない」というやり方。

私はこのやり方には違和感があって、塾内では薦めておらず、答え以外の何を見ても良いといっている。

子供たちが問題を解くという作業をするときは、十中八九その単元の「初心者」である。

まずはフォームを固めることから始めなければならない。

何も見ない、何も調べないというのは、自分でフォームを崩していることになる。

正しいフォームはノートの中や、参考書、教科書の中にある。

それらを「真似する」ことでフォームは固まっていく。

間違ったり、分からないときには「解説」の出番である。

どのように解いているのかのフォームが詳しく書いてある。

もちろん、それを「真似する」のである。

初心者がいきなり自分勝手なやり方をやっても、それは無謀でしかないし、下手をすれば変なフォームが癖になってしまう。

「見ながらやる」ことも大切なことなのだ。

反対の「見ないでやる」ということは、最終的な確認である。

自分が出来るかどうかの確認をする場であるのだ。

 

このようなことを繰り返していくことが「自立学習」である。

目的を決め、やり方が分かった上でやっていくものだ。

単に「何時間勉強した」というのは自学とは呼ばない。

残念ながら、自慰行為に過ぎないのだ。

 

| 講師としての自分 | 01:15 | comments(0) | - |
ようやく関係代名詞

中3の英語も残すは関係代名詞のみになった。

おそらくこの単元が中3英語の最大の山場になるであろう。

 

関係代名詞は形容詞節になるが、英語の形容詞の概念そのものが難しい。

不定詞の形容詞的用法も、また分詞の形容詞用法も同じ考え方なのだが、難しい単元に挙げられる。

前置修飾ならまだしも、後置修飾という形は中学生にとって理解しにくい単元なのだ。

 

さて、私が英語で使っているテキストは育伸社の「文法パターン錬成・標準版」である。

かれこれ20年以上使っているが、未だにこれより使いやすいテキストに出逢ったことはない。

しかし、大学生などの経験の浅い講師にはお薦め出来ない。

それは『解説が全くない』からである。

答えのみであり「解説は先生たちでご随意に」と言わんばかりの構成である。

文法的に説明が出来ない人、自信がない人は使わない方が賢明。

もちろん、個別や自学形式の塾で使うのはもっての外である。

横に常にそれなりのレベルの講師が付いておくのが条件ならば使えるだろう。

 

そんな講師泣かせの「文法パターン錬成」だが、実はこのテキストは全く改訂をしていない。

普通は何年かおきに改訂するものだが、このテキストにはそれが全くないのだ。

製作者の自信のほどが窺えるであろう。

 

このテキストは比較的平易な単語・連語を使っており、難問と呼ばれるほどのものはない。

しかし、とにかくしつこい。

定着させるためには、この「しつこさ」が一番の武器になるのだ。

何度も何度も同じ単語・連語を出してくるあたりはさすがによく分かっている。

 

冒頭の関係代名詞であるが、出し方が面白い。

いきなり関係代名詞に入るのではなく、まず形容詞の形から入ってくる。

前置詞を使った形容詞句、不定詞の形容詞的用法、分詞の形容詞的用法と後置修飾の形で形容詞の形に慣れさせようとする。

自然と私の授業もそれに合わせた形となるため、まず形容詞の概念から入ることになる。

レベルが低いテキストだと『人の時はwho、物の時はwhich』で終わっている場合すらある。

これでは穴埋め、しかも関係代名詞を使うことが分かっている場合のみしか解けないではないか。

おそらくそういう形でしか説明出来ない講師が山ほどいるからなのだろう。

 

文の構成そのものが分かっていなければ、あまり意味はないと思われる。

だからなのだろう、毎年「関係代名詞が全く分からん」という生徒たちが中学校では続出しているらしい。

最後の難関になるこの関係代名詞、上手くクリア出来れば自由英作などでも大きな武器になる。

ここは毎年教科書を無視してでも時間をかけなければならない単元であり、講師側としてもかなり気を遣う単元なのだ。

 

| 講師としての自分 | 00:17 | comments(0) | - |
「君だけの授業」?

「君だけの授業」「一人一人に合わせた授業」とたまに聞くフレーズだが、耳に優しく甘美的な言葉が心地よい。

では「君だけの〜」とは一体どういうものか考えたことがあろうか。

 

そもそも「君だけの〜」の状態にしたいのであれば、講師側にはとてつもない力量が求められる。

まず機慇古未稜塾蓮性格を見極める』。

次に供慇古未僚熟度を見極める』。

そして掘愃8紊了間配分を細かく決める』。

さらには検慇古未帽腓錣擦晋斥佞撚鮴發靴討い』。

くらいの能力は必要だ。

私には無理です(笑)。

 

気紡个靴討惑塾呂呂泙世靴癲∪格はそんなに簡単に把握出来ない。

しかし、おそらくこれが一番大事。

暗記をサボるタイプかもしれないし、早飲み込みの気もあるかもしれない。

半年以上は付き合わないと性格までは見えてこない。

 

兇紡个靴討呂修譴覆蠅帽圓韻襪隼廚Α

ただ教科によってバラツキがあるだろう。

 

靴一番の難関なのだが、考えれば相当難しいことが分かる。

生徒たちが1年間でやる単元は決まっているのだ。

例えば一次関数で手間取っている生徒がいるとしよう。

一次関数を手厚くやってやりたいのは山々だが、「時間に制約がある」のは当然のことである。

「学校は次の単元に進む」ということを念頭に置いておかなければならない。

学校は時間が来れば、次の図形へと進んでいくのだ。

これが「時間の制約」である。

また弱点を発見したからといって、安易に全学年などに戻るのも歓迎出来ない。

それも「学校は先に進む」からである。

安易に前に戻ると、「今やっていることが出来なくなる」という形になる。

つまりは弱点を増やすだけである。

能力によって定着する時間は千差万別であるが、「期限がある」ということは考えなくてはならないことだろう。

時間的な制約がある以上、ペースは講師側で配分し、出来るようにならなければならない部分も講師側で調整してやる必要がある。

能力が低ければ「せめてここまで」というラインは必要だろうし、能力が高ければ「難問まで」という設定も必要だろう。

さらには『テキスト』の問題も出てくる。

「君だけの〜」であれば、「やらせる問題も『君だけの』」でなければならないはずだ。

授業は「君だけの」で、やらせる「テキストは同じ」ということはあり得ない。

そもそもテキストが同じであれば、授業はほぼ同じになる傾向が強い。

つまり「どんな成績の子でも同じ説明」。

また、どんなに出来る子でも、「そのテキスト以上のことは出来ない」という形になるだろう。

しかし「一人一人テキストが違う塾」というのは、ついぞお目にかかったことはない。

 

犬皸娚阿汎颪靴ぁ

生徒が違えば使う言葉が違うのは当たり前。

「朝廷」という言葉の意味が分かっていない子と、「朝廷」も「幕府」もある程度意味が分かっている子、当然説明は変わる。

これも「生徒の能力」や「生徒の習熟」を把握していないと、説明は単なる言葉の羅列でしかない。

テキストの穴埋めをして「いいねぇ」と連呼しているだけでは生徒には何のことやら分かりはしない。

顔色や視線を一瞥しただけで、今の説明は不足だったということが分かる能力が講師には必要なのである。

 

こうして見てみると「君だけの〜」「一人一人に合わせた〜」というものはよっぽど熟練した講師でなければ難しいと判断出来ると思う。

私には到底無理だから『一斉授業』+『プチ自立学習』という形を取る。

一斉授業は「時間をコントロール」するために必要である。

また「本物の自立学習」が出来る子は、中学生では全体の2%未満と言われている。

「本物の自立学習」とは

1.やることを決める

2.出来るようになるまでやる

最低でもこの2つは必要なのだ。

だからこそまず「やることを決めてやる」ことから始めなければならない。

この塾の場合は「確認テスト」である。

先週授業であったことをテストという形式にしてやってもらう。

そうすると子供たちは勝手に復習を始めるのだ。

実際、「塾に通って初めてノートを見直すようになった」という子どもは多数いる。

それから「出来るようになるまでやる」が大事なのだ。

完全に任せてしまうと「多分」「一応」という言葉がよく返ってくる。

しかし実際は半分出来れば良い方と思った方いい。

自分への甘さを極力排除しなければ、これは出来ないのだ。

だからこの塾では「再テスト」がある。

出来るまで、覚えるまで、私がひたすら採点していく。

ここまでしないと意味はない。

学習とは何時間やったかではなく、何が出来るようになったかなのだから。

 

まだ「自立学習」とまでは呼べないので「プチ自立学習」と呼んでいる。

1.やることを塾で決めてやる

2.出来るまで塾が採点する

しかしやっていることは実は同じなのだ。

こういう習慣が「自分で勉強出来るようになる」ために必要だと思われる。

 

| 講師としての自分 | 01:20 | comments(0) | - |
新しい短歌のために その2

ただひとつ惜しみて置きし白桃のゆたけきを吾は食ひをはれけり

 

 

「白桃」に所収されている昭和8年の斎藤茂吉の一首。

短歌集「白桃」の名前は、この歌にある白桃から採られているので、茂吉の自信作なのだろう。

 

この歌の最も優れているとされている点は「ゆたけき」という言葉。

佐藤佐太郎は「ゆたけき」によって生々しさが消え、叙情詩としての力量が発揮されているとしているし、塚本邦雄も「格別の光」「これ以上考えられぬ効果」と激賞している。

歌の意味そのものは単純であり、『たった一つ残しておいた白桃を私は食べてしまった、何と美味しかったことよ』という感じになる。

この歌の場合は表現から受け手の想像力をかき立てることにある。

「ゆたけき」においては、言わずもがな。

そして「ゆたけきを吾は」と8音を用いてわざと破調にすることで、食べてしまった心の動揺なり、白桃の美味しさへの感動を表す。

「はくとう」ではなく「しろもも」と詠んでいるのも何か意味があることだろう。

白桃の柔らかさを表現したのかもしれないし、甘さを表現したのかもしれない。

まだ私には答えは出ていないのだが、「白桃」そのものに何らかの意味が含まれているのかもしれない。

何かに置き換えている隠喩なのかもしれないと思って詠んでいる。

 

 

 

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手広げていたり

 

 

寺山修司17歳の時の作品で、自註も残っている。

「私は海沿いの町で育ち、自転車旅行の時に山間で出会った少女に海の広さを両手を広げて説明しようとしたが、それも今は悔しい思い出になっている。」

といった趣旨の言葉を述べている。

自註をそのまま信じるならば、この極端な破調(六・七・八・七・七)も意味を持ってくる。

修司の心の動揺や上手く伝えられないもどかしさを表しているのではないだろうか。

今の子たちはもしかしたら、山で手を伸ばしているルフィを想像するのかもしれない。

現代っ子たちには『麦藁帽=ルフィ』という部分がある。

ルフィなら海のことはよく知っているだろうし、違和感はない。

時代とともに情景が変化するのも別に悪いこととは思わない。

ただ私自身は、寺山修司は競馬を愛した文化人というイメージがあって、競馬好き(馬券は買いません)の人間としては多少親しみを覚える。

さらばテンポイントという追悼詩などは名作である。

また騎手では吉永正人などを贔屓にしており、吉永鞍上のミスターシービーがダービーを勝つ3週間前に急逝した。

 

| 講師としての自分 | 00:26 | comments(0) | - |
学力を付けるために、成績を上げるために

塾講師を始めたばかりの頃、「どうやって授業を組み立てようか」「どういう風に説明しようか」、そんなことばかり考えていた。

3年ほど経過すると、「どういう言葉の方が分かりやすいか」「どういう例で説明しようか」と少しばかりミクロの視点へと変化していった。

10年も経つと「どうやったら学力が付くのか」「どうやったら成績が上がるのか」と考えるようになり、逆にマクロな考えになってしまい、今もそれは継続している。

 

授業そのものはどういうふうにでも変化させられる。

1回の説明で不思議な顔をしている生徒がいれば、別の例を何個か出せるくらいの引き出しはある。

しかし「成績が上がる」「学力が付く」という点で、塾としての基本に対しては未だ明確な答えが出せないでいる。

 

一つだけ分かっているのは、1回や2回で力が付くことはない、ということである。

私の場合は『確認テスト』という形に活路を求めた。

長年の経験上、中学生くらいの子供たちが家で真剣に勉強するということはほとんどない。

と言うよりも、だからこそ塾に来ているのだ。

 

「できるまで」

言うは易く行うは難し。

これは生徒にも講師にも根気を伴う作業になる。

英作10個が子供たちにとってどれだけ大変か、1個や2個の英作しかしない、もしくはさせないという人には絶対に分からない。

講師としても、英作10個の採点はかなり大変なのだ。

単語や文法上の誤りはもちろん、3単元・時制・aやthe・単複数形などを一瞬で採点せねばならない。

私の場合は、再テストも私が採点するため、ぞろぞろと採点を生徒たちが求めてくる。

今では英作1問につき、2秒〜5秒で採点出来るし、50問の単語くらいならば、30秒もあれば充分である。(実際に生徒に聞いてみれば分かります)

というよりも、このスピードで出来なければ、生徒に再テストをやらせる資格はない。

生徒の待ち時間が増えるだけだ。

 

そして全ての採点を行うことで、個人個人の弱点も私自身が全て把握している。

「君はこの部分が弱点」「君はこういうミスをしやすい」「君がこの単語を間違うのは3回目」など、生徒個々に対して言うべきことがある。

手前味噌だが、個別と謳っている塾でもここまで生徒を把握している講師は、ほんの一握りだろう。

どんなに大変でも「成績を上げる」「学力を付ける」という観点から考えれば、生徒の弱点が分かっていなければ全て本末転倒になってしまうので、講師側も決して気は抜けない。

 

確認テスト、再テストはこのように生徒にも講師にもかなりの負荷がかかる。

だからこそ力が付いていくのだと思っている。

ただし、これで完成形だとは思っていない。

まだ無駄があるはずだし、授業そのものもまだまだだ。

これで完成と思った瞬間に成長は止まる。

| 講師としての自分 | 00:18 | comments(0) | - |
文章題のその前に

以前、今の小学生には英語教育よりも日本語教育の方が大事だと書いた。

小・中学生の勉強を見ていると痛切にそう思う。

算数のほんの短い言葉さえ理解出来ていない。

何と何を比べているのかも分からずに、ただ出てきている数字を式にしているだけだ。

足し算なのか、引き算なのか、またはかけ算割り算なのか、そういうことを認識出来ていない事項が多い。

 

もし小学生の時にこういう傾向があったならば、間違いなく中学の文字式で引っかかる。

例えば「300円からx円を使った」とあったら、「300x」と書く子が続出する。

「使った」から引き算とは考えずに、「300x」が一番見慣れているという理由だけで。

方程式になるとそれは更にひどくなる。

方程式とは元々は「項」を作る作業である。

しかし、見慣れているから全て「〜x」の形になるのだ。

 

簡単な部類に入る値段の問題で『1本120円の赤のペンと1本100円の黒のペンを全部で12本買ったら1340円でした』というものがあったとする。

うちの塾は表を書かせて目で見ることを大事にしているが、それでも「どちらかをx本としたら、もう片方は(12-x)になる」ということが出来ない子も多々いる。

平気で「片方がxならもう片方は12x」と平気で書いてしまう。

このようなことは小学生の頃から鍛えておくべきことで、四則の意味をしっかりと把握しておかねば後々苦しむ。

たったこれだけの文が上手く理解出来ていないのに、国語が出来るわけがない。

 

ほんの少しのこと、四則を吟味したり、言葉に注意する。

たったこれだけのことでも日本語は少しずつ上達していくものだ。

それを小学6年間きちんと鍛えてからでも、英語は遅くない。

| 講師としての自分 | 23:46 | comments(0) | - |
中2数学

私が「中学生の中で最も難しい」と思っているのは中学2年生。

中だるみと呼ばれる精神的なものもあるが、学習的に難しいのだ。

中学3年の方がよっぽど簡単に思っている。

 

特に数学。

楽なのは最初だけで、1学期の終わりくらいからひたすら山場の連続になる。

まず最初の難関は「連立方程式の文章題」。

特に「割合」と「速さ」が大きく立ちはだかる。

これは小学生の時の学習が大きく関与しているのだが、単純にやっていた子はまず引っかかる。

「速さ」の場合、単純に「き・は・じ」で頭に入れている子は危ない。

「距離=速さ×時間」で式が完結しているため、足し算引き算が入ってくるとダメになる。

大事なのは「項を作る」という意識で、それぞれの項で「き・は・じ」を使うという感覚が必要なのだ。

 

例えば

『4kmの道のりを分速xmで30分進み、途中から分速ymで80分進んだ』

という形ならば

「分速xmで30分」で「き・は・じ」

「分速ymで80分」で「き・は・じ」

といった具合に、項それぞれで「き・は・じ」を使っていく感覚がなければ、かなりの難関になる。

もちろんそれ以外の方法も必要ではあるが・・・。

 

また「割合」も小学生の頃の学習が大きなウェイトを占める。

そもそも「割合」はかけ算であるという認識が低い。

こういう時はかけ算で、こういう時は割り算で、という形でやってきた子は中学でかなり苦労する。

少なくとも中学生では「かけ算以外の式は作らない」。

これも「かけ算で項を作る」という認識がかなり求められる。

 

 

この難関を越えたと思ったら次は「一次関数」がやってくる。

3年生の2次関数より遙かに難しい。

まず直線の式を求めることも意外と難しいものなのだ。

一次関数の利用になってくると言わずもがなである。

ここで脱落していく生徒たちはかなり多い。

現在、うちの塾でも悪戦苦闘中だ。

そして秋も深まる頃、「証明」や「平面図形」がやってくる。

 

 

この学年の数学は本当に気が休まる暇がない。

| 講師としての自分 | 01:04 | comments(0) | - |
授業について行けない?

成績が芳しくない子が入塾してきたとしたら、授業のレベルは下げるのか。

答えは「No」である。

若干時間は取られるかもしれないが、決してレベルを下げることはない。

 

そもそも中学生レベルであれば、ほとんどの子は「授業中には差は付いていない」。

授業を聞いていないとか手遊び、落書きをしているというのならば論外だが、キチンと聞いていればさほどの差は付かない。

差が付くのは「授業後」だと思っていい。

どれだけの復習をしたかで差が付いているのだ。

 

まず覚える速さ。

暗記は鍛えれば鍛えるほど、速く多く出来るようになる。

その速さがまず如実に表れる。

もちろん才能の違いもあるだろうが、ここで大きな差になっている。

しかし時間の相違はあれ、決して避けては通れない道である。

ここの差をどれだけ縮めておくかで大きな違いになる。

それにも気付かずにただ問題を解くだけ、もしくは解かせるだけ、になっているパターンは多い。

 

次に練習量。

暗記があってこその演習である。

覚えることすらしていないのに、練習だけやってどうする気?

解けるわけがない。

練習した気になっているだけであり、ここでも当然差は付く。

演習とは、暗記で得た知識をどうやって使うかを確認する場なのだ。

演習だけで力が付くのならば、相当地頭がいい。

 

そしてやり直し。

成績が上がる、もしくは学力がつくということは言い換えれば「出来なかったことが出来るようになる」ということである。

出来なかったところを放り出しておいて力が付くわけはない。

これを厳しくやってこそ初めて力となっていく。

やり直しを徹底的にやっている塾は、やはり結果を出している。

逆にやり直しがほんの少し(例えば5問程度の英単語)になっている塾は、言わずもがな。

 

さらに再確認。

うちの塾で言えば「再テスト」に当たる。

「出来るようになるまで」を徹底することで知識としての定着が見られるようになってくる。

 

『差』というものはこうやって広がっていくものである。

授業だけで差が生まれているのではない。

| 講師としての自分 | 00:13 | comments(0) | - |
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